移民前夜(2/5)

2

 最初、祖国のお偉方はデモをガス抜き程度に考えていた。焦土作戦により発生した大量の難民が、ステップを彷徨う過程で蛮族に一人残らず平らげられた事件も、このデモの鎮火と同時に忘れ去られるだろうと踏んでいたのだ。それは間違いだった。途中経過を省くと、デモは早々に暴動に移り変わり、暴動はいつの間にか革命になっていた。そういえば君主政権なのは我々の国だけである。ということに、みんな気づいたのだ。むろん、君主政権が悪いのは君主政権だからだ。誰かがユンボを転がしてきて、糞王の首を成層圏まで蹴っ飛ばしてやるぜ、ヒャッホー。などと叫びながら宮殿の壁に横穴を空けた。怒れる臣民が王宮に雪崩れ込んだ。糞王の首は蹴っ転がされて庭園の池にぼちゃんと飛び込み、無政府状態が訪れた。

 隣国が、これを見逃すはずはなかった。まず調査団を送り込み、『内乱を招く恐れあり。内政干渉已む無し』というような調査結果を引き出した。即座に陸軍二個師団がジャングルを踏み越えやって来て、治安維持の名目で居座った。主権が回復すれば即座に撤退するというようなことを隣国は言ったが、その裏で、主権を回復させてくれそうな有能な人間を片っ端から処刑していた。こうして祖国はあっさり占領された。本来、このような事態を防ぐ為に開拓者は派遣された筈なのに、その開拓者の在不在問題が占領の引き金になったのであった。

 そのような状況下でも手紙官は開拓者に手紙を書いたし、開拓者は手紙官に返信した。祖国が占領されたことについての開拓者の返事は、『それは全く遺憾に思います。開墾は半径六メートルから四メートルを行き来しています。ところでなすの缶詰が残り四百六十個になりました』というものだった。そして新聞には相変わらず開拓者からの手紙を好き勝手に解体再構成したものが載っていた。森との闘いは開拓者の勝利に終わっていた。新展開は、開拓者と、先住民族長の一人娘とのラブロマンスだった。密会が知られれば、開拓者は先住民の手によって八つ裂きにされ、贄として夜の饗宴に供されるだろう。娘は娘で、村中の男に強姦され、言葉に出来ぬような責め苦をたっぷり味わった後、土に還らぬような処理を施され打ち捨てられるだろう。そして、二人の愛は、キノコ採り少年の密告によって露見した。

 副王は、国営新聞がこんな益体なき荒唐無稽な物語の為に紙面を裂いている理由が全く理解できなかった。それ故に開拓者の物語は放置され、人々の心の中で育まれた。手紙官の描くストーリーは、メタファに彩られた神話と化していった。激しい戦いの末、先住民を一人残らず爆殺して(もちろんキノコ採り少年も含めて。少年は祖国の国民性に合わせたやり口で念入りに殺された)娘を獲得した開拓者の姿に、人々は喝采を送った。一方で開拓者自身はと言えば、一昨日六時間かけて手斧で打ち砕いた杉の木の股から吹き出した新芽を、怒る様子もなく悠然と踏み躙ってから前進基地に帰ったり、落とし穴で野生イリーヤを捕獲したりしていたのだった。手紙官が受け取った開拓者からの手紙には、野生動物用の罠の、ちょっと偏執的なぐらい細部まで書き込まれた図像が描かれていた。打つ手無しだなと手紙官は嘆息した。

移民前夜(1/5)

1

 親の獲得した行動が遺伝するよう改変された母体から生れ落ちた彼は即ち純正の開拓者だった。つまり、馬鹿げた熱帯の、馬鹿げたジャングルの、馬鹿げた緑の大伽藍を木っ端微塵にして村を作り、祖国の版図を広げることこそ、彼が生れた瞬間に定められた使命だった。事の起こりは、まだ革命も占領も起きていなかった時代に遡る。未踏の地に派遣された開拓使は、隣国が兵士と移民をジャングルに次々送り込んでいる現状を視察して、いずれこの地は我らが偉大なる祖国をわけしり顔で侵攻するための忌々しい前進基地と化すであろう。との報告を行った。祖国のお偉方は青ざめた。今すぐにでもこの地は開拓されなければならない。先住民の集落とマラリアを運ぶばかでかい蚊と泥水以外には木しかないこの地は切り拓かれ、発展しなければならない。我らが祖国の領土として。故に彼は派遣された。パンと土地に釣られた公募移民や屯田兵に先駆け、環境整備を行う為に。その時彼が持ち込めたのは、身の回り品としては手斧と地図を描くための筆記用具、それから三匹のイリーヤと、ナスの缶詰六千個のみだった。後に彼はイリーヤを繁殖させ、一時期は六十匹も飼っていたが、先住民に強奪され祭事の生贄に用いられたり(矢鱈に木の幹を打ったり、処女のおまんこをチンポに似た形のヤシの新芽でぶち抜いたり、ヒョロヒョロとした甲高い悲鳴で輪唱する手のものである)、さもなければ野生化したりで、缶詰の数が三千八百個になる頃には、六匹しか残っていなかった。この畜生は、ジャングルの六本足連中と交雑し、のし歩いたり、踏み殺したり、シュロの木陰で唖然とするほどディープなフェラチオに耽ったり、平たく言えば開拓の障害、あるいは単なる動物性蛋白源に成り下がった。

 何から何まで彼の裁量次第だった。町の場所を定めるのも、道路一本引くのも。ただ、一人では手に余る仕事ばかりだった。昨日馬鹿面のバンブーをなますに切り刻んだ跡地には、順番待ちしてた次の木が早速入植した。連中は雨さえ降れば一日で彼の背丈ほども伸びた。大木を切り倒せばそこに陽光が差し込み植物は我が意を得たりとばかり成長した。根扱ぎにしようとも彼が持っているのは大雑把なつくりの手斧だけだった。祖国の移民政策は実に優れた予算配分の下に行われたので、開拓者にはスコップ一つ供与されなかった。何にせよ彼の試みはジャングルの繁茂に手を貸すようなものだ。むろん、一向にやってこない移民や、切れば切るほどタフになる、まるきりケツ毛とおんなじ性質を有するジャングルなどは、彼にとり問題にならなかった。死ぬまで甲斐無き樵仕事に従事しようと苦にならない。彼はそういう風に生まれたのだ。

 彼はとりあえずの住居に定めテントを設営した場所の周りを執拗に開墾した。いくら木を切った翌日、前日以上に茂っていようと、頓着せず手斧を振り回した。祖国の軍歌を口笛で吹きながら素手で地面を掘り、根をぶっこ抜いた。露呈した真っ赤な酸性土をイリーヤに踏み固めさせた。三年かかって、彼は前進基地の周囲、半径四メートルを更地にした。三日も放置すればあっという間に下草が生えてきたので、手の休まる暇はなかった。イリーヤが幾ら貪り食ってくれても、雑草は意固地になって生えまくった。ついに彼一人の(テントよりはずっとまともな)住居が完成すると、そこから前述の通りの生活がはじまった。道路を作ってはキスの木に茂られ、地図を作っては出鱈目な繁茂によって陳腐化し、有毒の茸を食っては三週間の下痢と闇雲に華やかな幻覚に悩まされ、ナスで口周りをひりひりさせ、それでも前進基地を防御し、いずれ訪れるだろう移民の為の環境整備を繰り返した。もし誰かが何かの偶然で彼を訪い、事情を知れば、その誰かは、開拓者を、罵るか説得するかどっちかの手段でこの仕事から引き摺り下ろそうとしただろう。

 手紙の話をしよう。専用の鷲が運んできてくれる奴だ。それは一週間に一度、手紙官から彼の許に届けられる。手紙の内容は、手紙官の近況や祖国の現状、激励の言葉、その他本当にどうでもいいことなど多岐に渡った。親が文字を修得していたので彼もまた文盲ではなかった。その点で言えば祖国の連中の半分がたより彼は卓越していた。祖国の採用した三十四の表音文字を彼はすらすら読み下せた。彼は感想などとくに持たなかったし、手紙は一度読まれるなり焚き火にくべられよく燃えるという役目を果たした。手紙への返信も彼の仕事の内だった。彼の手紙には事実がただ書かれてるだけであってそこに情動やら何やらは一切焼き込まれない。それはよかったですねえ。的な儀礼的返答、ここ最近行った活動、それから缶詰の残り数だとか、その程度のことしか描かれていない。

 開拓者からの手紙を受け取った手紙官はそれに推敲を加える。その過程で、食人植物との壮絶な闘い、沼沢地での遭難、嵐の中の決死行などが追加され、完成した手紙の抄録は国営新聞の六面に記載される。このような困難を乗り越え、やがてこの地を安全で快適な世界に作り変えることが、わたくしに課せられた使命であり、また、喜びでもあるのです。というような言葉で、手紙は締め括られる。むろん、当然出てくるのが、果たして本当に開拓者は存在するのか? という類の疑問だ。移民を募るポスターは何年も張り替えを忘れられ、単なる黄ばんだ紙と化した。新聞の六面の記事にしても、革命の時分は、根っこ同士の複雑な絡み合いが生じさせたニューラルネットワークにより知性を持った森と開拓者の果てしない戦いを、延々と連載していた(締め括りは毎回律儀に、『この闘いこそわたくしの喜び云々』といったものだ)。開拓者からの返信は、回を重ねる毎にセンテンスを減らし、やがてなすの缶詰の残り個数のみしたためられたものになっていったので、これはある意味仕方ないのだが。とにかく、新聞の六面に荒唐無稽な嘘を記すのはけしからんので代わりに俺のエッセイを載せればいいのになあと思う人間は無数にいたし、移民募集ポスターの残り滓がへばりついた壁に自分のところのポスターを貼り付けたい歯医者だって無数にいた。そうした徒輩にとってむしろ開拓者は邪魔臭い存在であり、そういう連中は、開拓者なんか居ないと本気で信じ込んでいる連中を上手く焚き付け、ちょっとしたデモなどを起こさせたりした。

最近あったうれしいこと

古川日出男『聖家族』の仮綴本届く。歓喜、そして法悦。すごいぞ、この小説は。やはり『古川日出男』っていうジャンルを作るべきだと思う。なんつったら当の古川日出男はムっとするだろうけど。


・神保町の古書店にて、サンリオ文庫版『ヴァリス』を四百円で入手。ちょうど小説書く為ディックを体系的に読んでいたところなんで、歓喜。けど『釈義』がめんどくせえ、この小説。しかしディックの現代性は半端ねえな。アメリカの文科系キッズの為の青春小説はヴォネガットの『スローターハウス5』だか『プレイヤー・ピアノ』だかって言われてるが、現代日本人の俺としては『流れよわが涙、と警官は言った』を抉りこむようにプッシュしたい。この不安こそ俺たちのものだ! この涙こそ俺たちのものだ! ワオーン!


・彼女と長野行った。諏訪湖畔。ちょうカラっとしてた。足漕ぎボート漕いだら膝が爆発しそうになった。温泉は神のファインプレイ。


・友人にいきなりPSPメモリースティックとモンスターハンターポータブル2ndGを貰った。何の前触れも無しに。嬉しいっていうかちょっと混乱した。伊集院光が若手芸人にXBox360配って回るのとはわけが違う。同年代だし。友人の言「ボーナス思ったより貰えたんで、山分けしようと思ったんだ」。俺が君にどんな貢献をしたって言うんだ?

らっこの言葉

 らっこの赤ちゃんが死んだという。六時ぐらいのニュースで見た。赤ちゃんらっこをお腹に乗せた母らっこに、父らっこが、いつもの調子でじゃれついたのが原因らしい。母らっこに対しての甘噛みは狙いを外れ、赤ちゃんらっこのお腹をずたずたに引き裂くことになった。そうして、生後わずか二十日の赤ちゃんらっこは死んでしまったのだ。開かれたお腹に塩水を浴びて。

 とても仲の良い夫婦だったのだと思う。ぼくはYouTubeで、水族館のらっこ夫婦の映像を観たことがある。二匹は手を繋いで眠っていた。野生のらっこは潮流に流されないよう、こんぶを体に巻きつけて眠る。その名残なんだろうと思う。水族館にこんぶはないけれど、二匹一緒なら、二匹で潮流に流されるのならば、大丈夫。何故って二匹は愛し合っているのだから。

 とても仲の良い夫婦の間に生まれたらっこは、死んでしまった。こんなに辛い悲劇は無いだろう。誰にとっても。

 ぼくは考える。言葉はなかったのだろうか? らっこたちの間に、会話はなかったのだろうか?

 ほんの一言で済んだはずだ。「赤ちゃんが危ないから、じゃれてはいけないのよ」。母らっこの一言は、しかし、届かなかったのだろうか?

 例えば、父らっこと母らっこが、まったく別々のらっこ生を送っていたような場合には。

 母らっこと父らっこは共にアラスカ海に生まれた。ここからは全くの仮定。まずは母らっこの場合。

 母らっこは海流のぶつかりあう激しい場所に生れ落ちて、群れもそこにあった。海に翻弄され、夜が明けて眠りから覚めれば、こんぶがちぎれて群れが離散していたりなんてこともしょっちゅうだし、渦巻きに呑み込まれてそのまま浮かび上がってこなかった仲間を、母らっこは何匹も見た。

 厳しい自然環境が、ある種の宗教を生じさせるということは、これは人間の歴史を振り返れば立証できる。一神教は砂漠で生まれた。

 だからつまり、母らっこの所属する群れにも宗教があった。

 海に神が偏在し、群れに餌やこんぶや出産場所を授けてくれるのだし、その代償として破壊をもたらすのだという宗教。簡単に、らっこ教としておこう。らっこ教は、あらゆる責任の所在を概念に押し付けることによって、らっこ達の精神的安定を保つために生み出された。

 らっこ教は生命の木たるこんぶとして図像化された十個の教義によって支えられる。この教義を護る限り、母らっこたちは幸福だ。

 一方で、父らっこは、いかにも南国的な(というのもおかしな話だけど)、享楽的な海にいた。同じアラスカ海とは思えない、凪の続く海にいて、魚は食べ放題、交尾はし放題、こんぶは体に巻きつけ放題。そんな生き方をしているらっこ族に、宗教が生まれるはずはない。らっこたちは日々、愉快ならっこ生を楽しみ、なんだか分からないうちに生まれ付いて、なんだか分からないうちに死ぬのが常だった。

 そんな父らっこと母らっこは、共に捕らえられ、同じ水槽に放たれ、父らっこは母らっこに、母らっこは父らっこに恋をした。二匹は愛し合う。愛は、もちろん、容易に文化圏を超越して、二匹を、こんぶのように(というのはらっこの慣用句だけど)結びつける。ここで少し補足しておきたいのだけど、らっこ語は、どのらっこでもだいたい一緒だ。らっこというのはそこまで頭がよくないからね。だから父らっこと母らっこは、互いに「訛りがきついなあ」と相手の言語について思った。無論、愛が訛りを超越することは、もうさっき語ったとおりだ。

 らっこの赤ちゃんが出産される。

 あるいは。

 らっこが赤ちゃんを出産する。

 悲劇が生じる。

 父らっこは嬉しかったんだ。本当に心の底から嬉しかったんだ。何しろ自分に似た小さい生き物が母らっこのおなかの上に乗っかってすやすや眠っていて、それはどうやら、自分の生きる目的らしいって思ったから、すごく嬉しかったんだ。

 だから、父らっこは、じゃれつこうとした。たくさんの愛を前歯にこめて、母らっこの皮膚を優しく噛もうとした。

 母らっこは驚いて叫んだ。

「赤ちゃんが殺される」

 父らっこはこの言葉の意味が分からなかった。

 さあ、もう一度、二匹の生まれに立ち返ろう。

 母らっこの使うらっこ語の主語は常に神だった。「神に生かされる」、「神に殺される」、「神に餌を与えられる」、「神に」、「神に」、「神に」。

 父らっこの使うらっこ語の主語は常におれだった。「おれが生きる」、「おれが死ぬ」、「おれが食う」、「おれが」、「おれが」、「おれが」。

 父らっこは、母らっこの言葉を、こう解釈するほかなかった。

「わたしが、赤ちゃんを、殺す」

 それは際どいジョークに他ならない。何しろそこにいる小さいふわふわした自分に似たものは、生きる目的なのだから。そういう冗談も含めて父らっこは母らっこが愛しかった。そして噛み付いた。

 その一撃で自分の生存目的が失われるとも知らないで。

天使を拾う

 おれは天使なんか拾わないでここまで生きてきた。少なくともこれまでの人生に天使を拾っておけばよかったと後悔するような日は来なかったし、それが三十年続けば今後とも恐らく大した変化は無いだろうと思ったからだ。

 墓場がひっそり埋もれる松林を抜けて堤防から砂浜を見下ろす。ちらほらともう釣り人の姿がある。顔を上げると、空は薄青色で遠くの雲の腹はレモンドロップみたいな色だった。まだ少し冷える。イナダ釣りの合間に天使を拾う男の群れをおれは再び見下ろす。だが天使が何をしてくれるっていうんだろう。竿をよくしならせてくれるとでもいうのか?

 おれは砂浜に降りた。潮の満ち干きの加減が鋭い段を作る浜を駆け下ると、クーラーの中からペットボトルを取り出して茶を飲んだ。それから、バケツを海に投げ込んで海水を取り、そこに凍ったオキアミを沈める。オキアミの表面が溶けるまでに仕掛けは組みあがっていた。オキアミをコマセ籠に詰めると仕掛けを放った。それを十回ばかり繰返す内にどんどん朝日は昇っていった。

 釣果ゼロ、惨めな気分だ。既に諦めた連中は天使拾いに夢中だ。流木を掻き分けてゴム手袋で掴み上げた天使。うすく赤の差す、コシオリエビのような美しい石の中に封入された天使。だが、おれは天使なんか拾わない。

 どうにも、釣れない。

 バケツの中のオキアミはほとんど溶けて薄っぺらい板切れと化した。三度、根がかりした。連日の不調。うんざりして溜め息をつくと、天使でも一つ拾ってやろうかという気分になった。拾わないのはスタイルじゃない。たまたま拾わずに来ただけなのだから。まあどちらにせよ単なる気紛れだ。クーラーに腰掛けたまま足元の流木を払うと、天使がいた。

 アカハネムシのような輝く赤色の石に封じ込められた天使と目が合った。何だ、傷ついてるんじゃないか。おれはちょっと不思議に思った。どうして天使が傷つくようなことがあるんだ? 他の天使もみな、傷ついているのか? 天使たちは犠牲者なのか?

 だとすれば、おれは天使を拾う。ポケットの中はまだしも外よりは暖かいだろう。祈られすぎた天使たちよ、少し休め。きっとイナダは釣れないだろうけど、おれは、そんなことは大したことじゃないと思い始めていた。なぜならおれの愛はきっと(天使を拾い続けた人々のように、それと同じく)天使を癒すだろうから。

『俺専用しおり』的、松浦理英子について

雑記を書くぞ、などと意気込んでおいて何も書いていない。ハッスル・エイド2008に行ったり、未来科学館の『エイリアン展』を観たりしたが、それについてテンション高めのblog文体で書くのもあほらしい(『インリン様……(;д;)ゞビシッ』みたいな )。承認欲求を一日6ヒットのblogで満たそうだなんて、愚かな事なのだ。ネット上実弾? そんなものニャンニャンだ!


という前フリで、さて、松浦理英子を最近こつこつ読んでいる。処女作『葬儀の日』から、『セバスチャン』、『ナチュラル・ウーマン』と追っていき、『親指Pの修行時代』は一週間後ぐらいから読みはじめる予定だ。で、頑張って、読んだことない人が『おー読みてー』って思えるような文章を書いていきたいと思う。


ナチュラル・ウーマンまで読んだ限りでは、今のところ、松浦理英子のやっていることは、現実に軟着陸するまでの無限の滞空時間、のようなものに思える。



葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)


短編集『葬儀の日』の主題は、同化だった。表題作、『葬儀の日』には、それをはっきりと示す、まー見通しはよくなるけど正直要らないんちゃう、的文章が書かれている。互いの存在に気づいてしまった川の両岸が、どうその問題に対処するのか? という問題に喩えて、主人公が、自分の置かれている状況について語ったものだ。

自らの体である土を少しずつ切り取り崩して行って、水の中に進入し、対岸に達しようと試みることです。
(略)
「二つの岸はお互いを欲してるのか。(引用者註:インタビュアーが主人公にした質問)」
 だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。(河出文庫文藝コレクション『松浦理英子初期作品集I 葬儀の日』、p31l1)


『葬儀の日』において異質なものとの同化という行為は必然であり、他者にどれだけ否定されようと、その真実だけは、両岸で互いに反射しあって、不可侵の絶対性を保ち続ける。『乾く夏』、『肥満体恐怖症』においても、最終的に主人公は他者との同化を選択するのだ。




『セバスチャン』での同化は、少しばかりマイルドになって、主従関係という形であらわれる。だが、この作品のラストは、『葬儀の日』を完全に叩きのめすようなものとなっている。正味の話、うわーそう来るんだー、と思った。順を追って読むとこういうサプライズがあって面白いぜ。と、しばしの間、ゾクゾクしっぱなしだった。



ナチュラル・ウーマン

ナチュラル・ウーマン


連作短編集『ナチュラル・ウーマン』では、主従関係さえも横滑りして、性愛の上でのSM関係というところにまで矮小化されている。尚、この作品集は時系列がシャッフルされて(アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』みたく)並べられている。時間の流れを追えば『ナチュラル・ウーマン』→『いちばん長い午後』→『微熱休暇』となるのだが、作品集には『いちばん長い午後』→『微熱休暇』→『ナチュラル・ウーマン』という並びで収められている。


この作品集を時系列順に読めば、同化、主従関係、SM関係といった主題が片っ端から解体されていき、新しい関係性の可能性が仄かに提示される、というようなことが言えると思う。


ここで一つ、たとえ話をする。アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』では、『ライブアライブ』の後に『涼宮ハルヒの憂鬱V』が放映された。つまり、『現実に着陸した(ライブアライブ)』後に、『現実に着陸できない自分(涼宮ハルヒの憂鬱V)』が語られたことになる。そこでは、解消された筈の主題が反復されているとは言えないだろうか。


アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』には続きがあり、ハルヒは髪をポニーテールにすることで現実に(再び)着陸する。しかし、『ナチュラル・ウーマン』は『涼宮ハルヒの憂鬱VI』を持たない。つまり、『ナチュラル・ウーマン』が『いちばん長い午後』と『微熱休暇』を丸呑みし、終りを失わせているのだ。


最初に戻ろう。現実(『微熱休暇』で提示された、新しい関係性)に着陸するための滞空時間を、天地の境を失うことによって引き伸ばしていく、それが『ナチュラル・ウーマン』までの松浦理英子なんだなあ、というのが、俺の感想。一体この先、親指がチンコになる、みたいな出オチネタで何をどうしちゃってるのか、それがとても楽しみで仕方ない。読むべき本がたくさんあるのは、本当に嬉しいことだなあ。

三つの小さな王国

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

柴田元幸訳、白水社。2001年七月発行。

全く、ミルハウザーなんてここで褒める意味はないのだけれど。というわけで、またも自分語りからはじめる。

高校時代、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』は俺にとって何よりも大切な本だった。いや、トオマス・マンの、『トニオ・クレエゲル』だ。一時期は本棚に五冊あった(書き込み要員、尻ポケット突っ込まれ要員、家での読書要員、あとは惰性)。今は散逸して二冊しか残ってないけど。トニオ・クレエゲルの消費期限は過ぎてしまったが、スティーヴン・ミルハウザーとはまだ出会ったばかりだ。


芸術のせいでめちゃくちゃに痛めつけられながら、それでも芸術を信じてしまう、一種の滑稽さを、そして真摯さを、ミルハウザーは、本当に丁寧に描いてくれる。そして俺はすげーすげーと面白がりながら読むのだ。

こんな風に書いてしまえば、だいたいのミルハウザー作品についてのフォローが出来てしまう。それでおしまいです。というのはあまりにも記事として空っぽなので、別パターンの作品についてあれこれ言うことにする。

『三つの小さな王国』は、一本の中篇と二本の短編で構成されている。その中から、『王妃、小人、土牢』という短編を引っ張ってこよう。


この作品は、一つか二つのパラグラフが積み重なっていって物語世界が構築されていく、という形を取っている。ミルハウザーは『東方の国(イン・ザ・ペニー・アーケード所収)』でも同じやり方で似たような小説を書いている。この引き出しの少なさ、パターン芸もミルハウザーの魅力だ。まあそれは余談。


まず、一つの町がある。一つの町に、『むかしむかし』で始まる物語が存在する。その物語は、町から見える城に関しての、美しい王妃と、嫉妬深い王と、国を追われた美貌の辺境伯と、城仕えの小人が織り成す中世的な悲劇だ。

現実の『町』での営みと、『物語』を往還しながら、ストーリーは進んでいく。やがて、『物語』は予定調和的な悲劇の色合いを強めていき、並行して、『町』がなぜ『物語』を必要としたのかが明らかになっていく(このあたりの力業ぶりは痛快だ)。最終的に語られるのは、物語が持ち得る力について。物語が、拡散し、変容し、人々の精神に深く刻み込まれることについて。

たったひとつの結末しか持たない物語など、まるで一本しか枝のない木のように、私たちには何ともうつろで物足りないものに思える。結末一つひとつが、物語の深くに埋もれた、その結末でしか明るみに出しようのない何かを表現しているように感じられるのだ。(白水Uブックス版『三つの小さな王国』、p193l2)


引用部分では、オープンエンドの思想、とでも言うべきものを、『町』の住民性に依拠しつつ語っている。うわーすげえ。と素直に思った。


『物語』をかたちづくる各ガジェットも(『東方の国』ほどではないけど)魅力的だし、ラストシーンの情景の美しさも素敵だ。いい小説だなあと思う。


正味、こんなくだくだしいエントリより、柴田元幸の『訳者あとがき』の方が、千倍ぐらいミルハウザーの魅力を伝えることに成功しているのだが、それはそれ。俺はミルハウザーとか超好きっすけどね。と言いたいだけなのだ、本当のところ。