『俺専用しおり』的、松浦理英子について

雑記を書くぞ、などと意気込んでおいて何も書いていない。ハッスル・エイド2008に行ったり、未来科学館の『エイリアン展』を観たりしたが、それについてテンション高めのblog文体で書くのもあほらしい(『インリン様……(;д;)ゞビシッ』みたいな )。承認欲求を一日6ヒットのblogで満たそうだなんて、愚かな事なのだ。ネット上実弾? そんなものニャンニャンだ!


という前フリで、さて、松浦理英子を最近こつこつ読んでいる。処女作『葬儀の日』から、『セバスチャン』、『ナチュラル・ウーマン』と追っていき、『親指Pの修行時代』は一週間後ぐらいから読みはじめる予定だ。で、頑張って、読んだことない人が『おー読みてー』って思えるような文章を書いていきたいと思う。


ナチュラル・ウーマンまで読んだ限りでは、今のところ、松浦理英子のやっていることは、現実に軟着陸するまでの無限の滞空時間、のようなものに思える。



葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)


短編集『葬儀の日』の主題は、同化だった。表題作、『葬儀の日』には、それをはっきりと示す、まー見通しはよくなるけど正直要らないんちゃう、的文章が書かれている。互いの存在に気づいてしまった川の両岸が、どうその問題に対処するのか? という問題に喩えて、主人公が、自分の置かれている状況について語ったものだ。

自らの体である土を少しずつ切り取り崩して行って、水の中に進入し、対岸に達しようと試みることです。
(略)
「二つの岸はお互いを欲してるのか。(引用者註:インタビュアーが主人公にした質問)」
 だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。(河出文庫文藝コレクション『松浦理英子初期作品集I 葬儀の日』、p31l1)


『葬儀の日』において異質なものとの同化という行為は必然であり、他者にどれだけ否定されようと、その真実だけは、両岸で互いに反射しあって、不可侵の絶対性を保ち続ける。『乾く夏』、『肥満体恐怖症』においても、最終的に主人公は他者との同化を選択するのだ。




『セバスチャン』での同化は、少しばかりマイルドになって、主従関係という形であらわれる。だが、この作品のラストは、『葬儀の日』を完全に叩きのめすようなものとなっている。正味の話、うわーそう来るんだー、と思った。順を追って読むとこういうサプライズがあって面白いぜ。と、しばしの間、ゾクゾクしっぱなしだった。



ナチュラル・ウーマン

ナチュラル・ウーマン


連作短編集『ナチュラル・ウーマン』では、主従関係さえも横滑りして、性愛の上でのSM関係というところにまで矮小化されている。尚、この作品集は時系列がシャッフルされて(アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』みたく)並べられている。時間の流れを追えば『ナチュラル・ウーマン』→『いちばん長い午後』→『微熱休暇』となるのだが、作品集には『いちばん長い午後』→『微熱休暇』→『ナチュラル・ウーマン』という並びで収められている。


この作品集を時系列順に読めば、同化、主従関係、SM関係といった主題が片っ端から解体されていき、新しい関係性の可能性が仄かに提示される、というようなことが言えると思う。


ここで一つ、たとえ話をする。アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』では、『ライブアライブ』の後に『涼宮ハルヒの憂鬱V』が放映された。つまり、『現実に着陸した(ライブアライブ)』後に、『現実に着陸できない自分(涼宮ハルヒの憂鬱V)』が語られたことになる。そこでは、解消された筈の主題が反復されているとは言えないだろうか。


アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』には続きがあり、ハルヒは髪をポニーテールにすることで現実に(再び)着陸する。しかし、『ナチュラル・ウーマン』は『涼宮ハルヒの憂鬱VI』を持たない。つまり、『ナチュラル・ウーマン』が『いちばん長い午後』と『微熱休暇』を丸呑みし、終りを失わせているのだ。


最初に戻ろう。現実(『微熱休暇』で提示された、新しい関係性)に着陸するための滞空時間を、天地の境を失うことによって引き伸ばしていく、それが『ナチュラル・ウーマン』までの松浦理英子なんだなあ、というのが、俺の感想。一体この先、親指がチンコになる、みたいな出オチネタで何をどうしちゃってるのか、それがとても楽しみで仕方ない。読むべき本がたくさんあるのは、本当に嬉しいことだなあ。