三つの小さな王国

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

柴田元幸訳、白水社。2001年七月発行。

全く、ミルハウザーなんてここで褒める意味はないのだけれど。というわけで、またも自分語りからはじめる。

高校時代、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』は俺にとって何よりも大切な本だった。いや、トオマス・マンの、『トニオ・クレエゲル』だ。一時期は本棚に五冊あった(書き込み要員、尻ポケット突っ込まれ要員、家での読書要員、あとは惰性)。今は散逸して二冊しか残ってないけど。トニオ・クレエゲルの消費期限は過ぎてしまったが、スティーヴン・ミルハウザーとはまだ出会ったばかりだ。


芸術のせいでめちゃくちゃに痛めつけられながら、それでも芸術を信じてしまう、一種の滑稽さを、そして真摯さを、ミルハウザーは、本当に丁寧に描いてくれる。そして俺はすげーすげーと面白がりながら読むのだ。

こんな風に書いてしまえば、だいたいのミルハウザー作品についてのフォローが出来てしまう。それでおしまいです。というのはあまりにも記事として空っぽなので、別パターンの作品についてあれこれ言うことにする。

『三つの小さな王国』は、一本の中篇と二本の短編で構成されている。その中から、『王妃、小人、土牢』という短編を引っ張ってこよう。


この作品は、一つか二つのパラグラフが積み重なっていって物語世界が構築されていく、という形を取っている。ミルハウザーは『東方の国(イン・ザ・ペニー・アーケード所収)』でも同じやり方で似たような小説を書いている。この引き出しの少なさ、パターン芸もミルハウザーの魅力だ。まあそれは余談。


まず、一つの町がある。一つの町に、『むかしむかし』で始まる物語が存在する。その物語は、町から見える城に関しての、美しい王妃と、嫉妬深い王と、国を追われた美貌の辺境伯と、城仕えの小人が織り成す中世的な悲劇だ。

現実の『町』での営みと、『物語』を往還しながら、ストーリーは進んでいく。やがて、『物語』は予定調和的な悲劇の色合いを強めていき、並行して、『町』がなぜ『物語』を必要としたのかが明らかになっていく(このあたりの力業ぶりは痛快だ)。最終的に語られるのは、物語が持ち得る力について。物語が、拡散し、変容し、人々の精神に深く刻み込まれることについて。

たったひとつの結末しか持たない物語など、まるで一本しか枝のない木のように、私たちには何ともうつろで物足りないものに思える。結末一つひとつが、物語の深くに埋もれた、その結末でしか明るみに出しようのない何かを表現しているように感じられるのだ。(白水Uブックス版『三つの小さな王国』、p193l2)


引用部分では、オープンエンドの思想、とでも言うべきものを、『町』の住民性に依拠しつつ語っている。うわーすげえ。と素直に思った。


『物語』をかたちづくる各ガジェットも(『東方の国』ほどではないけど)魅力的だし、ラストシーンの情景の美しさも素敵だ。いい小説だなあと思う。


正味、こんなくだくだしいエントリより、柴田元幸の『訳者あとがき』の方が、千倍ぐらいミルハウザーの魅力を伝えることに成功しているのだが、それはそれ。俺はミルハウザーとか超好きっすけどね。と言いたいだけなのだ、本当のところ。