ブックオフに『鉄の夢』を見た

授業をサボり、ドトールで、須川邦彦の『無人島に生きる十六人』という、十六人の青年〜老人が無人島でタフに過ごす本を読み、読み、読み終え、アザラシが死ななくて本当によかった…というやさしい気持ちでブックオフに行く。

俺はブックオフの105円コーナーが大好きだ、何故ならそこは普遍と消費の殿堂(あるいはその末の墓場)だから。桜井亜美とか銀色夏生とか村上龍の本の群れを見ると、よくここまで頑張ったなあという気持ちになり、親しみが湧く。ピラミッドから発掘されたはちみつみたいだな、と思う。人間、本を出すのならば、ブックオフの105円コーナーを目指すべきであるなあと、一人のハイワナビとして、これは真剣に思っている。

その愛すべき、実に愛すべき105円コーナーを行ったり来たりし、墓場を彷徨う心地よさに身を委ねていたら、『鉄の夢』というタイトルがちらりと見え、目を疑った。


『鉄の夢』は、前々から設定を聞いてときめいていたカルトSF小説だ。パラレルワールドSFなのだが、『第二次大戦に日本が勝った』とか、『実はアドルフ・ヒトラーが生きていた』とかいうレベルのパラレルさではない。アドルフ・ヒトラーがSF作家になっている。そしてSF作家アドルフ・ヒトラーの遺作となった長編『鉤十字の帝王』(第二版)がまるまる小説の中に突っ込んである。出版社の賛辞、著者紹介、著作リストまで添えられている。著作リストを引用しよう。

アドルフ・ヒトラーによる本書以外のSF作品

小惑星の皇帝』
『火星の建設者』
『星盗り大戦』
『惑星テラの黄昏』
『宇宙から来た救世主』
『優越種族』
『千年支配』
『意志の勝利』
『明日の世界』


古川日出男ボルヘス田中啓文も呆れ返るだろう無茶なことをやってるこの小説、分かってる古本屋に行くと、ぺらぺらした紙で表紙が包まれていて、見返しには、ちょっとそれはないっすわ。な値段が書かれていることが多かった。それがこうして、105円コーナーにつつましく収まっている。そう言えば前このブックオフブコウスキーの『パルプ』が平然と置いてあったっけ……

こうしたイレギュラーが雑じるブックオフは、やはり偉大だと思う。雑多であり、大衆であることが、肝腎なのだと教えてくれる。雑ざれブックオフ、そして俺!

雑記もつけていく

唐突だが、俺は『テキストサイト』という形態が隆盛を極めていた頃から、一日のユニークヒット数が15程度のサイトをやっていた。最も恐ろしいのは、記事数という実弾が無いということである。という強迫観念的な哲学がある(ああ、これも、テキストサイト風の言い訳じみた前ふりだ)。そういうわけで、今日からは雑記をつけていこうと思う。

シカゴ育ち

柴田元幸訳、白水社。2003年7月10日発行

1950年代、再開発の進むシカゴで、人びとは生きている。生きているとは、つまり、こういうことだ……少年は、スペリングの練習をしながら、古いダストシュートから聞こえてくるショパンに耳を傾ける。若者は、ガード下で、世間をのびやかに嘲笑しながら、ブルース・シャウトを響かせる。夢遊病者は、深夜のコーヒーショップに集まり、熱いコーヒーで覚醒する。子どもたちは、貯氷庫で氷漬けになっている、胸をはだけた女についての神話を囁きあう。


このコンセプチュアルな短編・掌編集を、俺は安っぽい内装と音楽と喧騒のドトールで、二百円のコーヒーを少しづつ啜りながら読み続けた。何となくそうするのが良いような気がしたから。


大火災によって全土が炒め物みたいに焼き払われたり、暴動が起きたり、荒廃地域に認定されたり、そうしたシカゴの歴史の上を軽やかに風が吹く瞬間を、ダイベックは切り取る。

「何が荒廃だ、キンタマ野郎どもが」とペパーが、自分のキンタマをつかんで世界に向けて振り回しながら言った。「これが荒廃だって? ふざけんなよ、雑草だって木だって何だってあるじゃないかよ。18番通りを見てみろってんだ」(白水Uブックス版『シカゴ育ち』、p63l3)

短編『荒廃地域』よりの一節を引用した。雑草や、木や、小さな昆虫、瓶の王冠、ヘッドライト。そうしたものへの目線が、シカゴの上を吹く風のように心地いい。


俺がいっとう好きなのは、『夜鷹』という短編の中の、一エピソードだ。

脱走兵が、自殺した彼の恋人を求め、死者たちの地下鉄に降りる。脱走兵は、何も無い永遠に時間を刻み付けるリズムでコンガを叩きながらトンネルを往き、彼女を見つけると、迷路のような地下世界を進んで地上を目指す、喪った彼女を取り戻す為。やがて彼は疲労する。コンガを叩く手が、止まり、時のない永遠が彼を押し潰そうとする。コンガの音は彼抜きに、時間を刻むのではなく、時間を砕くようなリズムで響き続ける。

若者はふり返り、もうだめだ、と娘に告げようとする。だが彼女はもうそこにいない。向き直ると、彼女が目の前に立っている。いままでずっと、彼女こそが彼を導いてきたかのように、彼女こそが二人をここまで連れてきたかのように、若者の前に立っている……少しづつ、彼にもわかってくる。そもそものはじめから、呼び寄せていたのは自分ではなかったのだと。(p140l7)

復帰

ばたばたと引越し。その後、思った以上にインターネットが自分の生活に必要ないと気づき、今日まで放置。


小説で賞をいただいたり、留年したり、悲喜のコンボを食らった。本はたくさん読んだ。スティーヴン・ミルハウザーは、とても素敵な作家だなと思う。

今日からまた、淡々とやっていく。そんな決意表明。

死の床に横たわりて

死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)

死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)


八月の光』よりも、こちらの方が個人的には好みだ。というのも、俺はドストエフスキーから小説に入っていったので、
「小説というものはポリフォニーであればあるほど愉快」
という、自慰の仕方を間違えて覚えた中学生みたいなところがあるから。尚、補足。俺はバフチンという人のことを全く知らないので、ここで使ってるポリフォニーは、『色んな奴おって好き勝手喋ってるやん。はは、おもろ』ぐらいの意味。


この『死の床に横たわりて』は、一人の女の死と、その死体を収めた棺桶を家族が運んでいく、というメインプロットを、十五人のキャラクターのモノローグで進めていくという、『はは、おもろ』の極限のような小説だ。

とくに好きなのは、ヴァーダマンの、失語症的な語り方。理性など一個も無い、剥きだしの情動がセンテンスになって走っていく、居心地の悪い気持ちよさは素晴らしい。

デューイ・デルもいい。あらゆる出来事が自分の妊娠めがけて反射していき、殆どオリジナルな言語が構築されている。

幾つもの声が、宝石の中で反射を繰返す光のように物語の内圧を高めていき、最終的に、突き飛ばすような乾いた終わり方をする。この異常な小説を噛み砕いて理解することは、俺には、多分あと十年ぐらいしないと無理だろう。多くの作家に、傷跡のような影響を与えただろうウィリアム・フォークナーが物語の中に押し込んだ、幾つもの声、俺は声を聴くことはできるけど、声を放った人の思いまで分け入ることが全く出来ないから。

八月の光

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

加島祥造訳、新潮社。昭和四十二年八月三十日発行

新潮社の海外古典文庫にラインナップされているような古典について語るなんて、「おこがましい」と「有名すぎて大体の人は知ってる」の二点でもって、意味が無い行為だと言えるかもしれない。ので、自分語りから始めたい。

俺は古川日出男の小説が好きで好きで、「十九世紀ロシア文学」とか「日本近代文学」とかいう小説ジャンルの中に「古川日出男の小説」があってもいいぐらいだと思っている。そして、古川日出男のルーツを海外に求めれば、スティーヴ・エリクソンだったり、G.ガルシア=マルケスだったりするのだと思っている。更に遡っていけば、ウィリアム・フォークナーは、源流のようにそこに居る(エリクソンに関すれば『黒い時計の旅』で柴田元幸が指摘した通り、マルケスに関すれば言わずもがな)。

だから、個人的に言えば、ウィリアム・フォークナーについて語ることにはそこそこ意味がある。


粗筋や、「クリスマスとリーナ、どっちが主人公?」みたいな問題は別にいいだろう。八月の光を受けて誰かの死を望む、あの美しさも別にいい。ゴシック体やフォントの使い方の妙、ここぞというタイミングで使われるリフレインなんかだってもう皆語ってる。

さて、常に人を語ったフォークナーにならって、俺も人を語るのならば、俺はバイロン・バンチがいっとう好きだ。

 人の心を傷つけずに過せる場所としては、土曜の午後のあの工場の中こそ、まずいちばん安全だ、と僕はそう思っていたんです。(新潮社版『八月の光』三十二刷改版、p101bl2)


バイロン・バンチ。全く凡庸で、少しずるくて、過去に何もせず、未来に何も為し得ないだろう男。俺が好きなのは、バイロン・バンチだけ、歴史を持ってないところだ。

例えばダン・ダムド(呪われた者)、ハイタワー。彼には南北戦争の歴史が畳み込まれている。
例えばジョアナ・バーデン。彼女にはヨクナパトーファの歴史が畳み込まれている。
例えばジョー・クリスマス。彼には血統の歴史が畳み込まれている。
ブラウンやリーナは、ヨクナパトーファの外からアラバマの歴史を持ち込んでいる。

そんな中でバイロン・バンチだけが遊離している。彼は物語の外縁部を終始うろうろし続ける。接着剤みたいな役回りで、代替可能。

何かを為そうと決意したところで、バイロン・バンチは何も出来ない。唐突だが俺はガンオタなので分かりやすくガンダムで例えると、カツ・コバヤシみたいなキャラだ。


歴史を持たないバイロン・バンチは、ジョアナやハイタワーやクリスマスのように、自らの歴史性に翻弄されることがない。出来うる限り誠実に、未来を選択しようとする。情念と歴史が濃いスープみたいに渦巻く劇中で、クルトンみたいにぷかぷか浮びながら、目指すところを一心に目指す。何にも縛られないバイロンは、小説の最後、全く相手にされないのを知っていながら(それでも一縷の希望に縋って)リーナ・グローブを追う。八月の光の荘厳で狂気じみた美しさよりも、よほどバイロン・バンチの、土臭い奮闘の方が、俺には美しく思える。