シカゴ育ち

柴田元幸訳、白水社。2003年7月10日発行

1950年代、再開発の進むシカゴで、人びとは生きている。生きているとは、つまり、こういうことだ……少年は、スペリングの練習をしながら、古いダストシュートから聞こえてくるショパンに耳を傾ける。若者は、ガード下で、世間をのびやかに嘲笑しながら、ブルース・シャウトを響かせる。夢遊病者は、深夜のコーヒーショップに集まり、熱いコーヒーで覚醒する。子どもたちは、貯氷庫で氷漬けになっている、胸をはだけた女についての神話を囁きあう。


このコンセプチュアルな短編・掌編集を、俺は安っぽい内装と音楽と喧騒のドトールで、二百円のコーヒーを少しづつ啜りながら読み続けた。何となくそうするのが良いような気がしたから。


大火災によって全土が炒め物みたいに焼き払われたり、暴動が起きたり、荒廃地域に認定されたり、そうしたシカゴの歴史の上を軽やかに風が吹く瞬間を、ダイベックは切り取る。

「何が荒廃だ、キンタマ野郎どもが」とペパーが、自分のキンタマをつかんで世界に向けて振り回しながら言った。「これが荒廃だって? ふざけんなよ、雑草だって木だって何だってあるじゃないかよ。18番通りを見てみろってんだ」(白水Uブックス版『シカゴ育ち』、p63l3)

短編『荒廃地域』よりの一節を引用した。雑草や、木や、小さな昆虫、瓶の王冠、ヘッドライト。そうしたものへの目線が、シカゴの上を吹く風のように心地いい。


俺がいっとう好きなのは、『夜鷹』という短編の中の、一エピソードだ。

脱走兵が、自殺した彼の恋人を求め、死者たちの地下鉄に降りる。脱走兵は、何も無い永遠に時間を刻み付けるリズムでコンガを叩きながらトンネルを往き、彼女を見つけると、迷路のような地下世界を進んで地上を目指す、喪った彼女を取り戻す為。やがて彼は疲労する。コンガを叩く手が、止まり、時のない永遠が彼を押し潰そうとする。コンガの音は彼抜きに、時間を刻むのではなく、時間を砕くようなリズムで響き続ける。

若者はふり返り、もうだめだ、と娘に告げようとする。だが彼女はもうそこにいない。向き直ると、彼女が目の前に立っている。いままでずっと、彼女こそが彼を導いてきたかのように、彼女こそが二人をここまで連れてきたかのように、若者の前に立っている……少しづつ、彼にもわかってくる。そもそものはじめから、呼び寄せていたのは自分ではなかったのだと。(p140l7)