らっこの言葉

 らっこの赤ちゃんが死んだという。六時ぐらいのニュースで見た。赤ちゃんらっこをお腹に乗せた母らっこに、父らっこが、いつもの調子でじゃれついたのが原因らしい。母らっこに対しての甘噛みは狙いを外れ、赤ちゃんらっこのお腹をずたずたに引き裂くことになった。そうして、生後わずか二十日の赤ちゃんらっこは死んでしまったのだ。開かれたお腹に塩水を浴びて。

 とても仲の良い夫婦だったのだと思う。ぼくはYouTubeで、水族館のらっこ夫婦の映像を観たことがある。二匹は手を繋いで眠っていた。野生のらっこは潮流に流されないよう、こんぶを体に巻きつけて眠る。その名残なんだろうと思う。水族館にこんぶはないけれど、二匹一緒なら、二匹で潮流に流されるのならば、大丈夫。何故って二匹は愛し合っているのだから。

 とても仲の良い夫婦の間に生まれたらっこは、死んでしまった。こんなに辛い悲劇は無いだろう。誰にとっても。

 ぼくは考える。言葉はなかったのだろうか? らっこたちの間に、会話はなかったのだろうか?

 ほんの一言で済んだはずだ。「赤ちゃんが危ないから、じゃれてはいけないのよ」。母らっこの一言は、しかし、届かなかったのだろうか?

 例えば、父らっこと母らっこが、まったく別々のらっこ生を送っていたような場合には。

 母らっこと父らっこは共にアラスカ海に生まれた。ここからは全くの仮定。まずは母らっこの場合。

 母らっこは海流のぶつかりあう激しい場所に生れ落ちて、群れもそこにあった。海に翻弄され、夜が明けて眠りから覚めれば、こんぶがちぎれて群れが離散していたりなんてこともしょっちゅうだし、渦巻きに呑み込まれてそのまま浮かび上がってこなかった仲間を、母らっこは何匹も見た。

 厳しい自然環境が、ある種の宗教を生じさせるということは、これは人間の歴史を振り返れば立証できる。一神教は砂漠で生まれた。

 だからつまり、母らっこの所属する群れにも宗教があった。

 海に神が偏在し、群れに餌やこんぶや出産場所を授けてくれるのだし、その代償として破壊をもたらすのだという宗教。簡単に、らっこ教としておこう。らっこ教は、あらゆる責任の所在を概念に押し付けることによって、らっこ達の精神的安定を保つために生み出された。

 らっこ教は生命の木たるこんぶとして図像化された十個の教義によって支えられる。この教義を護る限り、母らっこたちは幸福だ。

 一方で、父らっこは、いかにも南国的な(というのもおかしな話だけど)、享楽的な海にいた。同じアラスカ海とは思えない、凪の続く海にいて、魚は食べ放題、交尾はし放題、こんぶは体に巻きつけ放題。そんな生き方をしているらっこ族に、宗教が生まれるはずはない。らっこたちは日々、愉快ならっこ生を楽しみ、なんだか分からないうちに生まれ付いて、なんだか分からないうちに死ぬのが常だった。

 そんな父らっこと母らっこは、共に捕らえられ、同じ水槽に放たれ、父らっこは母らっこに、母らっこは父らっこに恋をした。二匹は愛し合う。愛は、もちろん、容易に文化圏を超越して、二匹を、こんぶのように(というのはらっこの慣用句だけど)結びつける。ここで少し補足しておきたいのだけど、らっこ語は、どのらっこでもだいたい一緒だ。らっこというのはそこまで頭がよくないからね。だから父らっこと母らっこは、互いに「訛りがきついなあ」と相手の言語について思った。無論、愛が訛りを超越することは、もうさっき語ったとおりだ。

 らっこの赤ちゃんが出産される。

 あるいは。

 らっこが赤ちゃんを出産する。

 悲劇が生じる。

 父らっこは嬉しかったんだ。本当に心の底から嬉しかったんだ。何しろ自分に似た小さい生き物が母らっこのおなかの上に乗っかってすやすや眠っていて、それはどうやら、自分の生きる目的らしいって思ったから、すごく嬉しかったんだ。

 だから、父らっこは、じゃれつこうとした。たくさんの愛を前歯にこめて、母らっこの皮膚を優しく噛もうとした。

 母らっこは驚いて叫んだ。

「赤ちゃんが殺される」

 父らっこはこの言葉の意味が分からなかった。

 さあ、もう一度、二匹の生まれに立ち返ろう。

 母らっこの使うらっこ語の主語は常に神だった。「神に生かされる」、「神に殺される」、「神に餌を与えられる」、「神に」、「神に」、「神に」。

 父らっこの使うらっこ語の主語は常におれだった。「おれが生きる」、「おれが死ぬ」、「おれが食う」、「おれが」、「おれが」、「おれが」。

 父らっこは、母らっこの言葉を、こう解釈するほかなかった。

「わたしが、赤ちゃんを、殺す」

 それは際どいジョークに他ならない。何しろそこにいる小さいふわふわした自分に似たものは、生きる目的なのだから。そういう冗談も含めて父らっこは母らっこが愛しかった。そして噛み付いた。

 その一撃で自分の生存目的が失われるとも知らないで。