『地図男』語りと見せかけて。

地図男 (ダ・ヴィンチブックス)

地図男 (ダ・ヴィンチブックス)


面白かった。空中殺法をポンポーンと繰り出すルチャリブレみたいなエンタメだ。計算されていて隙がない。『山賊』はすげえ巧いなあって唸った。でもまあ感想文とか別にいいじゃんそんなの。誰が何言おうとみんな買って読むよこれ、だって面白いもん。そんなことより俺は古川日出男について語りたいっていうか語るけどね。


もともとこの『地図男』、古川日出男の『LOVE』っぽい小説かしらんと思って読んだ。ぜんぜん関係なかったけど、まあそれで、俺の中の『古川日出男』っていう、不定形の神像みたいなものを、少し言語化することが出来たんだ。ありがとう『地図男』。読んで面白い上に思わぬ副産物をくれて、本当にありがとう。で、せっかくだから比較論みたいな形にしてみようか。
アートルーパーが『人間とは何か』を解き明かしたように。


・『地図男』の文体は、古川日出男と似ている(さすがに『袋小路』に『デッドエンド』ってルビ振ったりしてなかったけど)。古川日出男ほど一文一文を刃物みたいに研ぎ澄ましたりはしてないけど、だからこその速さと楽しさがある。

・『地図男』には、探偵が存在している。語り手の『俺』だ。要するに古川日出男の特徴は探偵の不在ということだ。どこのどれだか忘れたけど古川日出男論の中に、『いきなり真相が明かされる』みたいな趣旨の考察があった。動機も手法も真実もドバっと語られながら物語が動いていく。『ユリイカ』2006年八月号で斉藤環が、古川日出男の小説をして『謎解きの興奮も、カタルシスの感動もない予告篇的エンターティンメント(p180)』と評していた。

・もっと言うと、古川日出男の小説には『俺』がいない。またも斉藤環の言葉を拝借すれば『キャラクターを物語に従わせ』ている。ここを突き詰めると、古川日出男が作家論的に語られがちな理由の一端が分かりそうだけど、まだぼやーんとしか分からん。


・『地図男』では、彼岸/此岸が明確に境界化されている。『地図上の世界』と現実界は、ある一点において(ネタバレに配慮しました)、くっきりと区分されている。古川日出男は境界化されていない。というか此岸の中にひょいと彼岸が出現し(時間のズレた東京、猫の群れ、湾岸の明治、ほかにもほかにも)登場人物はそこにアクセスし、容易に帰還する。『文藝』2007年秋号、古川日出男柴田元幸の対談を引っ張ってみよう。

柴田 そういえば古川さんの小説では、「こっち」に踏みとどまる語り手と、「あっち」に行ってしまったすごいやつという図式は全くないですよね。
古川 ないですね。
柴田 多くの小説はそうなってるんですよね。エイハブはあっちに行って、イシュメールはこっちにとどまる。ギャッツビーはあっちに行って、こっちにニック・キャラウェイがとどまる。ドン・キホーテはあっちでサンチョ・パンサはこっち……とかね。要するにあっちへ行けない人間が語り手になる。でも古川日出男の作品の場合には、あっちへ行ったやつが戻ってくるっていう、今までなかった手法をやっている。

(p23)

あれ? 言いたいこと全部すげー分かり易く完璧に書いてあるよ? あれー? 俺って何なの? 馬鹿なの? 死ぬの?




こんなところか。これら雑感をキッチリ抑えた上で、『聖家族』をもう一回読み直そうかな。あの『聖家族に挑戦!』て、感想文を二回送ったら二回図書券もらえるのかしら。